華厳宗不動山平等寺

平等寺の歴史

華厳宗 不動山 平等寺 開山縁起

華厳宗大本山東大寺末 不動山平等寺は、密教の根本尊である大日如来の使者、不動明王を本尊とし、厳しい修行をおこなうことにより、超自然的な霊的能力を得て、衆生済度を目的とするお山です。
昭和5年、末永眞如師僧の夢枕のもとに、お不動様が立たれ「木葉山を霊場にし、我をまつりたまえ」と啓示を賜りました。神仏の導きにより眞如師僧一同が木葉山を訪れると、そこには石灰岩を主に構成した鉱山、その山中には緑したたる木々、十数カ所から湧き出る清冽なる湧水、清らかな小川のせせらぎがあったのです。何よりも村の人々が大昔から、往生が滝、白糸の滝と呼んでいる滝壷は、深山幽谷を思わせる霊気漂う別天地でした。大自然に恵まれた神秘的な理想郷への御導きのもと、この霊滝を世に出させていただく事をお不動様に誓われました。村の人々の協力のもと、平等寺僧侶、信者様方の献身的な努力を注ぎ、昭和6年に衆生済度の霊場としてお山一帯を開かれました。
このお山一帯を霊場として開くために、山を切り開き、岩石を砕き、道を築き、幾年もかけて、お滝場・本堂・受戒堂・薬師堂・十三仏堂・三賢堂・子育地蔵堂・如意輪観音堂、さらに山の頂上には倶利伽羅不動堂を建立されました。その他に、山の神・足手荒神・生目八幡・粟島神社・猿田彦大明神・弘法大師・聖武天皇などさまざまな神仏諸菩薩様をお祀りされています。そして、道やお堂を築きあげていく中、数々と発見された布目瓦群。布目瓦は、奈良~平安初期時代に作られたものだと判明し、この山中には、1200年以上も前に寺院が存在していたことが明らかになりました。そういったことから鑑みると、眞如師僧がお不動様から啓示された御導きは、この霊山に呼ばれし天命だったのでしょう。
平等寺を開山された末永本善・末永眞如師僧らのもと、これまでにたくさんの平等寺信者様方がこの不動山で教えを受け、法を知り、修行を積み、正道を歩み続けてこられました。 霊験あらたかな不動山平等寺は、お山一帯を寺院とし、お滝のある寺として、心身を鍛え、精神力を養い、勇気を与え、己に克つ力を高め、自己の改革を実現することを目的としています。全ての方々の無事な日暮らし、そして幸せな人生を送れることを願います。

初代住職 末永本善師 二十五年忌大法要

昭和34年10月18日、不動山平等寺の初代住職 末永本善師の25年忌を、天平時代行列大法要として営む為に、奈良 東大寺より当時の第202世別当であった筒井英俊 大僧正をはじめ、北河原公海 長老、橋本聖準 僧正、清水公照 僧正を熊本にお迎えしました。先駆・楽人・稚児・物詣女・僧兵・式衆・管長・侍僧、そして平等寺の僧侶ら、各教会の支部長、信者、およそ1000人以上もの方々が練り行列と大法要に参加されました。導師の筒井管長を御輿に乗せ、東本願寺会館より出発し、新町、新市街、下通りを経て、桜町の平等院(現 真善寺)まで3丁にわたって練り歩く大行列となりました。
平等院に到着後、末永本善師の25年忌大法要が執り行われ、参拝者も含め、信者共々、本善師の霊前に回向いたしました。
本山 東大寺より管長ら計4名の高僧を招き入れた、平等寺の歴史に残る大行事として盛大に執り行われました。

不動山 平等寺 開山由来記

今ヲ去ル、約七百八十年ノ昔、源平ノ戦イニ破レタル平家ノ落武者四十七名ノ首領 徳重次左エ門兼、次ナル者此ノ山ノ頂上ニ寺ヲ建テ一同僧侶ト姿ヲ変エテ再生ヲ念願シ、此ノ瀧ニヨッテ専テ心身ノ練磨ニ精進シタリシタ事成ラズ山中ニ巧ヌ、 首領ノ一女音羽姫ハ此ノ谷間ニササヤカナル庵ヲ組テ暮ラス中、向フノ内古賀城エ住ム若殿ニ恋慕ノ情ヲ城ヨリ聞エル笛ク音ト事ノ音色トニ結ブ中、一族ノ知ルニ及ビテ父君ノ怒烈夕隊ニ、姫ハ十八才ヲ一期トシテ、此ノ瀧壷ニ身ヲ沈メ一命ヲ断チ切リトゾ。 其ノ後、人々ハ此ノ瀧ヲ 龍ノ瀧 ト玄エテ立チ入ル事無カリキ。
昭和六年末永本善、真如二人ノ師僧、此ノ瀧ヲ開キテ衆生済度ノ霊場トシテノ道ヲ開キテ、人霊ノ供養ノ道ノ中バニシテ逝キシカバ後、末永照善師此ノ供養ノ道ノ継ギ加エテ姫ノ由来ト因縁ヲ解キタリ。 音羽地蔵ハ水神地蔵ナレバ参拝スル者ハ水ヲ掛ケテ祈願スべシ。此ノ音羽地蔵菩薩ノ因縁解キニ共力ノ弟子、僧蠣原善雄アリ。 昭和二十四年三月二十四日 因縁解キシ者 末永照善 蠣原善雄

不動山一帯の地質

約3億3000万年前~約2億8000万年前に地下深くの強い圧力で形成された泥岩起源の古期三郡(三郡-蓮華)変成岩類。石炭紀の名前の由来は、この時代の地層から多く石炭を産することによる。 この地層から石炭を産するのは、当時非常に大きな森林が形成されていたことの傍証となる。陸上ではシダ植物が発達し、昆虫や両生類が栄えたこの時代に、両生類から陸上生活に適応した有羊膜類が出現した。 また、史上初めて空へ進出した生物が誕生した時代である。不動山一帯がすべてこの古生代の変成岩で形成されており、変成岩の岩肌にすべてのお堂が建立され、神仏諸菩薩様がお祀りされている。

不動山一帯の歴史

全国遺跡地図では、不動山の山頂一帯が、鈴麦浦田遺跡として遺跡調査されています。この山頂一帯からは、奈良~平安初期時代に作られた布目瓦や須恵器、土師器がいくつも見つかっております。
また、鎌倉時代の瓦なども見つかっており、奈良時代~鎌倉時代にかけて約500年の間にいくつもの寺院が建立されていたことがわかりました。平家の落人47名がこの不動山の山頂に逃げ隠れ、寺院を建立し、一同僧侶となり身を隠し暮らしていたとも言われております。
見つかった布目瓦等は平等寺本堂に展示されております。どうぞご自由にご覧ください。

霜野山延寿院康平寺 鐘撞き寺 法堂跡地

不動山を含めた霜野を中心とする山岳一帯の歴史は、1200年以上も前から始まったとされています。康平寺の本堂は、平安時代の康平元年(1058年)に霜野の真堂浦の地に建てられました。
京都の延暦寺と並んで元号を名前に持つ数少ないお寺の一つで、延暦寺と同じく天皇の命令にて建てられた寺であるという説があります。
密教の一大山岳寺院である康平寺は、霜野の四方の谷に4つの法堂と九十九院を配し四明が岳の山頂に鐘楼を設け、その鐘が鳴る時、一山の僧侶が本堂に集まって勤行(祈り・学問・修行)をしたと言われています。
平安時代から鎌倉時代にかけて、谷々峰々に神仏諸菩薩を配し、山岳密教の聖地とし、曼荼羅の世界を現出したとされ、この山岳一体で修行する僧は数百人にのぼったと言われています。
以降、鎌倉時代から南北朝時代は大寺院として最も栄えていましたが、豊臣秀吉の九州平定により、霜野一帯が滅びることとなってしまいます。その時に焼き尽くされた寺院も多く、一大山岳寺院康平寺は衰退していくことになりました。
現在は、平安時代に造られた木造地蔵菩薩、鎌倉時代に造られた千手観音と二十八部衆が康平寺にお祀りされております。人々の厚い信仰により、大事な仏像も守られてきたことでしょう。現在は、熊本県指定文化財として大切に安置されています。
その康平寺の配した山岳寺院一帯の一山、四明が岳の一つである南の山が、今の不動山平等寺の山であるとされ、山頂に鐘撞き寺、その谷間に真福寺が建てられたと言われています。
鐘撞き寺に使用されたとされている、奈良時代から平安時代初期に作られた布目瓦が、不動山平等寺の山頂から大量に見つかっています。開山された師僧から代々伝わる「鐘ガ淵」「鐘撞き寺」など不動山ゆかりの説…。布目瓦の出土と肥後国誌による古文献資料を調べていく中で、霜野山康平寺と不動山平等寺のお山が、深い歴史の中において密接な関係であったことが明らかになりました。
約300年~400年もの長い間、山岳密教の聖地であり、霊山とする歴史は閉ざされてきましたが、先代の眞如師僧が神仏に通じる強い力を持たれていたことにより、お不動様のありがたきお告げによってこの歴史ある神秘的霊山に再び出会うこととなり、新たに華厳宗不動山平等寺として神仏諸菩薩様をお祀りすることができました。
歴代の師僧らが、お不動様に導かれた深い意味と数々の因縁を解いていかれ、この山に関わる数々の御仏の供養を積み重ねてこられたのです。
不動山平等寺は、先代の師僧、そして信者方が一心に願われてきた思いを引き継ぎ、悩み苦しむ人々の救済・供養を目的とし、今もなお、この霊場 不動山にて衆生済度の正道を歩み続けています。 「肥後国誌」康平寺 鐘ガ淵并堂床より引用 山頭ニ平壇アリ。往古、康平寺ノ堂塔鐘楼ノ跡等、瓦礫叢底ニ多シ。亦後ノ谷川ノ流ニ鐘ガ淵アリ。當寺炎上ノ時ニ鐘ヲ鎮メシ所ト云。近世、淵ハ埋レテナシ。深夜此所ニ鐘ノ性出ルト云。